internet-boyzの日記

4人で交換日記をしています。

10月

さっき歯医者で、鼻風邪をこじらせた時の鼻水みたいな味のする液体を突然口にぶち込まれた状態で数分放置され、この顔↓になっていました。

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ところで最近、心臓の調子がどうにも悪い。

具体的には、頻脈っぽい、左胸に違和感がある、息苦しい、胸痛がする、たまに背部痛もある、などである。

さらには、この前バイト帰りに電車に乗っていたところ、胸のあたりから急に血の気が失せる感じがして一瞬意識がふわっとなってしまった。

これがここ2、3週くらい続いているから、やや怖いのである。

 

 

とはいえ、元から僕はストレスが積み重なると、すぐに昼夜逆転したり、息苦しくなったり胸が痛くなったりするタイプである。

どうやら心臓とか肺とかにしわ寄せがきてしまう体質のようだ。

今回はというと9月に18科目連続で試験があり、土日含めると20日以上勉強漬けの生活を送っていて、やっとその生活から解放されたばかりであるから、心当たりは大アリなのだ。

先ほど歯医者に遅刻しそうになって猛ダッシュした時も、会計の時に金が足りず近くのコンビニまで猛ダッシュした時も何ともなかったので、やはり心因性のものかもしれない。

よくわからないのであと数日様子を見て、まだ調子が悪いのなら病院で諸々の検査を受けようと思う。

 

 

ただし、所謂検査というものはそれぞれに得意不得意があり(これを感度や特異度などと言う)、さらに得意な方面すら絶対ではない。

加えて、見落としや見間違いなどのヒューマンエラーもある。

しかし、そんなことは分かってはいるものの、正論や事実と我々の気持ちはまた別で、実際、僕が検査をしに病院に行くのも、ある種の安心を獲得するためであったりもする。

先日頭痛があまりに酷くMRIを撮った時も、脳の血管は至って正常であることがわかり、それ以来安堵感からか頭痛もかなり良くなった気がする。

本当に、安心感というものは、人の体調を良くするのである。

 

 

そんなこんなで、普段自堕落な生活を送っていても何とも思わない僕も、今回は流石に少し気を使おうとしている(昨日は眠れなかったけど)。

僕の周りを見回すと、同じように夜眠れなかったり、乱れた生活を送っている人がたくさんいるが、是非皆さん身体は大切にしましょう。

 

 

mtkn

 

 

君のド〜ルチェwア~ンドwガッバ〜ナ〜wwwのその香水wのせいだよ〜wwww

お久しぶりです、熊猫です。

金木犀の香る季節となってきました。

金木犀の香りに特段の思い入れはないのですが、昔塾の帰り道にゴツい金木犀の木が立っていたのをふと思い出し、筆を執ることにしました。

さて、嘘か真か、「嗅覚を完治するところは脳の記憶を司るところに近い。だから、香りと記憶は結びつきやすいんだ。」という言説を、僕は耳にしたことがあります。

確かに、言われてみれば他の五感に比べて、ある匂いを嗅いだときにそれにまつわる光景がフラッシュバックすることはよくある気がします。

例えば、あるブルガリの香水を嗅いだとき。

実家の車で昔使っていたカーフレッシュナーの香りがほぼその香水と一致していて、当時イヤイヤ連れて行かれた塾のことを思い出してしまいます。

ちなみに僕は小学生の頃塾に通うのがマジで嫌で、塾に通い始めたくらいの頃に「ヨッシーの万有引力」というゲームにハマっていたのですが、今となってはヨッシーの万有引力」を見ただけで塾でクソ怒られた日々を思い出し、「ウッ!!!」となってしまいます

※※※

閑話休題

※※※

香りといえば、古今和歌集にもこんな歌が収められています。

さつき待つ 花たちばなの 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする

たちばな(古文で言うと香りが良い花代表)の香りで昔の恋人のことを思い出す、というなんともロマンチックな57577ですね。

いやあ、31文字で「香り⇒昔の恋人を想起」の表現が見事に完成されている。凄いなあ。

この和歌は、伊勢物語でも引用されています。

まあ、「バカクソ甲斐性がなくて嫁さんに逃げられた旦那が、再婚した元嫁夫婦の家に仕事で泊まったときに詠んで未練大爆発させる」というなんとも女々しい場面なのですが…

宮仕えを理由に家族を顧みないオトコ、サイテーだよね〜

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閑話休題2(ツー)。

※※※

他にも「香り⇒昔の恋人を想起」の流れで思い出すのは、kinki kidsの愛のかたまりのワンフレーズです。

あなたと同じ香水を 街の中で感じるとね
一瞬で体温蘇るから ついていきたくなっちゃうの

いや〜ロマンチックですね〜。わずかワンフレーズですが、その場面や心の動きが鮮明に浮かび上がってきます。

ちなみに僕はポーチュガルの4711というバブル期のおっさん御用達のヘアトニックとオーデコロンを使っているので、調子のいいときの僕からはバブル期のおっさんみたいな匂いがします

ちなみにそんなのを使ってる理由は、「18年通って刃牙死刑囚編とGTO全巻とドラゴンボール全巻を読破した地元の散髪屋と同じ匂いで落ち着くから」です。

※※※

閑話休題3(さん)。

※※※

あ、そういえば最近巷では「香水」という曲が人気らしいですね。

テレビで狩野英孝が歌ってるのを聴いて感動しました!

窪塚洋介も絶賛してましたし!

1000年前の人が31文字で伝えられる内容をわざわざ4分20秒かけて伝えようとする試みも斬新で良いなあと思いました。

実際こないだ銀座の三越行ったらドルガバの香水だけ売り切れてましたし。

「香水」パワーすごいなあ。

俺も一旦クズになろうかな。親の財布から金抜いてパチ屋行ったりとかさ。そうすればもっと歌詞沁みるかも。実際あの曲が沁みてる人、一回は女殴ってそうだし。ていうか瑛人の髪型のやつはだいたいそう。パスタ作った=家庭的くらいの解像度でしか家事を捉えてなくて、なんかあったらパチ屋逃げ込むタイプよ。俺にはわかるんだ。

いやあ、そんな曲が紅白で聴けるなんてすごいなあ。

そもそもNHKで「ドルチェ&ガッバーナ」ってOKなんだろうか。すしざんまいですらNGなのに。

今から年末がたのしみでしょうがね〜!!!

ではみなさん、良い10〜12月を!

よろしく習慣あるべし?

こんばんは。夜更かしクンと申します。

いやー、やばいですね、、

最後に更新してからめちゃ空いてしまった。

すみません(to 僕以外の3人)。

 

 

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習慣の力って実はすごく大事でー、

例えばお風呂から出る前、

お湯を抜いてすぐに浴槽を洗うようにしてて、

でもごはんを食べた後、

お皿を洗わずに1日放置しちゃったりする。

どっちも同じくらいめんどくさいはずだけど、

風呂掃除の方は、

一人暮らしを始めた初日からずっと続けてる。

そうするとホント脳死でも洗えるようになる。

認知資源の節約だね。

ありがとうだね。

 

 

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ご飯食べ終わった後って実はかなり幸せでー、

食べ終わってそのまま少し寝ちゃったりする。

深夜に起きて焦ってお風呂入って寝ると、

お皿を洗うのがどんどん先に伸びていく。

趣味が料理みたいな感じなんだけど、

お皿を洗うのはかなりめんどくさくて、

皿洗いまでが料理だーみたいな自覚ほしい。

毎食後に認知資源使っちゃってるね。

くやしいね。

 

 

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習慣の力って実はすごく大事でー、

こんな感じでいったん習慣になると、

脳死で何でもできるようになる。

それこそこのブログもそうで、

7月とかは生活の中にブログ書きがあった。

思いついたら脳死で毎日ちょっとずつ書いて、

担当回が回ってきたらそれを繋げる。

習慣の力であちこちに書き散らかしておいて、

締め切りが来たらそれを繋げて世に放つ。

脳死だね、ありがたいね。

 

 

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なんかこれ、実は一般的にとても大事でー、

9月は研究が本格化してきたり、

ラボ内での進捗発表(n時間)があったりと、

まあそんな感じでそれなりに忙しかったけど、

発表用のスライドを作ってても思った。

直属のセンセ、資料作ったりするのが速くて、

なんでかなーって観察してたんだけど、

・過去のスライドや図を流用

・データ取れたら即スライドにまとめる

みたいなことをどうやらやっている。

僕は昔から要領が悪くて、

毎回毎回その場でウンウン考えてたけど、

要領アップのためのヒントがここにありそう。

 

 

普段から、

2歩先くらいまでの作業をワンセットにして、

それを脳死でやりきってしまうというか。

習慣の力ってだいじだなーと、

スライドを作ってて感じました。

文章書きも、また生活の一部にしていくよー。

 

 

昨日はインターネットボーイズオハラクンや、

そのお友達と衝動的にでかい水を見に行って、

すごいよい夏の終わりだった。

今年の夏はあまり夏らしくなかったけど、

こうやって遊んでくれるひとがいて、

それで十分だなーって感じ。

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「よろしく千萬あるべし ー できるだけ多くの福が得られるように」とは言うけれど、ぼくはこれで十分たのしいナ。

むしろ、よろしく習慣あるべし、だね。

みんな今後ともよろしくネ。

 

 

 

夜更かしクン

冬将軍

オハラクンと申します。

暇すぎて岩波哲学思想辞典を毎日4ページずつ読もうかなと思ってる。

大体400日ちょっとで読み終わると思います。

まぁ読んでどうなるかわかんないけど、いい話を拾うためのアンテナ貼り作業は結構嬉しいことになったりするからね。

わーい。

 

 

八月が終わっちゃったのでだらだらと冬にやりたいことでも考えていこうと思います。

 

寒い中でココア飲む、みたいなのはかなりやりたい。

冬は何が旨いかなぁ。

実家に帰って寒ブリとかすごく食べたいですね。

ぼくかなり舌が未発達で、なんでも旨いと思っちゃうや。

でもなんかみんなの間でいいとされてるもの食べてるときって面白いし、どんどんやりたいな。なんだかんだめっちゃ旨いし。

 

あとは何したいだろう。

あんまり思い浮かばないですね。

大体こういうのは友達とああでもないこうでもないと話すためのものだし。

まぁなんか色々遊ぼうね。

 

冬将軍って冬のアレコレに詳しいからその期間だけめっちゃ強い将軍様のことだと思ってた。

早く足軽から将軍になりたいなー。

 

それじゃ。

歯痛

一月ほど前から、突然左の奥歯全体が上下ともに急に痛むようになった。

はじめの頃は痛みは数分で収まり、また元の状態に戻っていたので、それほど気にせずにいたが、ついにこの前、夜に大学から帰宅した後、遂に3時間ほど痛みが続いて動けなくなり、これはマズいと思って病院に行くことにした。

 


単に歯が痛むといっても、頭痛によるものだったり、三叉神経痛(これは併走する動脈の動脈硬化によることが多そうなので、流石にこの年齢では多分違うかしら?)であったり、狭心症などの放散痛であったり、或いは単純に親知らずや虫歯によるものであったりする。

そのため、病院といってもいろいろ考えられるが、とりあえず神経内科と、普段通っている歯医者に行くことにした。

 

 

まず、神経内科である。

人生初MRI、結果は至って正常で、たぶん偏頭痛か群発頭痛でしょうということに。

MRIを受けるのにあろうことかちゃんとコンタクトレンズを着けてきてしまい、医学生の鏡である。

また、今年24歳の大学生というところから医学生であることがバレ、MRIの画像を見せられながら脳の血管の名前テストをさせられることになってしまった。

そういえば、他人に陰部を見られるのはかなり恥ずかしいのに、思考の中枢であるところの自分の脳ミソを見られるのはあまり恥ずかしくないのは、結構不思議なことである。

何はともあれ、取り敢えず脳は大丈夫そうで、一安心であった。

 

 

次に、普段通っている歯医者だ。

この歯医者は、田舎の個人病院にしてはデカく、かなり繁盛しているが、過去にうまくハマっていない銀歯を放置され歯茎が腫れるなど、やや信用に欠ける病院である(しかし、歯医者は行くたびに次回予約をさせられるので、僕は病院を変更することなくダラダラと通い続けている)。

早速、歯の痛みについて尋ねてみると、親知らずでしょうと言われた。

そして、その次週に左側の親知らずを、上下いっぺんに抜くことに。

割と正常に生えていたがやはりかなり出血&腫れまくり、1週間が経った今でもまだ腫れ続けています。

 

 

結局、左の親知らずを上下両方抜き、更に頭痛薬(バルプロ酸・ミグシス錠)を朝晩で飲み始めると、嘘みたいに歯の痛みが治ってしまったので結局歯なのか頭なのかよく分からない。

神経内科では頭痛と言われ、歯医者では親知らずと言われ…、専門性というのは、悲しいかな時としてこういう状況を作り出してしまう。

歯科医と神経内科専門医の意見の食い違いを、コロナ禍における諸非医療系専門家の医学に対する解像度の低さに重ね合わせつつ、だからと言ってまあ難しいよな、と一人適当にやり過ごすのであった(なんか痛いの治ったし)。

ま、暫くは薬を飲みながら様子見ということで、取り敢えず怖い病気ではなさそうで(?)一安心なのでした(皆さんも体調が悪い時は、放置せず病院に行きましょう!)。

 


mtkn

ただいま東京(※注)、さよなら古墳。

どうも、ブログ更新ヤダヤダ期に突入していた赤ちゃんこと、熊猫です。

無事自動車免許(AT普通)をゲトったので、明日の新幹線で東京(※注)にとんぼ返りする予定なので、思いの丈を書いていきたいと思います。

***

残暑にもあれだけ激しく照りつけていたお天道様は、9月になった途端にすっとなりを潜めてしまった。

朝や夜などは顕著なもので、あれだけ寝苦しくてたまらなかった8月の夜が嘘のよう、便所に立てば開けた窓からふわりと秋風が漂ってくる。

おかげさまでここ最近は、秋の夜長をダラダラと、晩酌のアルコールが回った頭で映画を視聴するという文化的な生活を送っている。

しかし、これほど長い間実家にいたのはいつぶりだろうか。

思えば、高校を卒業してからというもの、1年間の予備校寮生活、そして今年で5年目になる下宿生活と、1年に1度か2度、盆と正月に帰るか帰らないか、という程度でしか実家に帰っていなかった。

高校を卒業する時にまだ小学生だった妹はいつの間にやら高校生だ。

そんなに長い時間離れていたにもかかわらず、今回の長期帰省生活は意外なほど違和感のない日々だった。

そして、寝てても母親が飯を用意してくれる生活というのはオツなものである。

コロナの影響で思いがけず長引いた帰省は、家族全員が揃って団らんの楽しい一ヶ月だった。

おそらく、一ヶ月以上実家に滞在するのは今回が最初で、そして悲しいかな最後だろう。

明日になれば18年間過ごした家での生活に後ろ髪を引かれながら、やらねばならぬことの待ち構える汚れた空の東京(※注)へ、「のぞみ」に乗ってドナドナドナと送り出されてゆくのだ。

大人になるということの一つには、こういうことも含まれているのかな、と感じる。

僕は自分の原風景を生活から捨象して、少しずつ大人になったふりをしていきます。

***

※注:新横浜です。

 

 

人事を尽くして天命を俟つ

”オタク”について、思うところがあったので書いてみようと思う。なお、”オタク”という言葉が指し示す対象はこんにちではあまりにも広すぎるように感じるため、今回ここで書くことは”オタク”の一側面をかすっているにすぎない可能性が十分にある、と初めに言い訳をしておく。

 

 

まあ言ってしまえば、「オタクであるための閾値が下がってないだろうか」ということである。

 

 

「アニメが好き」「アイドルを推している」「ゲームにハマっている」だけで、果たしてひとは”オタク”になれるのだろうか。ひとを”オタク”と呼んでいいのだろうか。

 

 

世間では、というかとりわけお茶の間を煽るようなマスメディア的には、上で挙げたような性質を持っていれば”オタク”と認定していることが多いのではないだろうか。また、”オタク”の発生過程というか、初期の”オタク”を垣間見てきた(そして、その後”オタク”観がアップデートされていないような)歴史の生き証人とでも呼ぶべき我々の親世代(50~60代)も同様の感想を抱いているように思う。”フツーな自分たち”にとってなじみがないようなサブでアンダーグラウンドなコンテンツに「触れて」いるひとは、まあすべからく”オタク”なのだ、という考え方である。ストーカーの家から少女マンガが発掘されれば、「ああやっぱりね」となり、もうそれだけで大満足なのである。

 

 

時は流れ、”オタク”という言葉がより一般に膾炙するようになる。この感覚に晒されてきたこどもたちは、マンガやゲームが好きになると、自分のことを”オタク”なのではないかと(その事実を受け入れるかどうか、また受け入れたがるかどうかは別として)ある程度考えるようになる。結果、”オタク”は安易に再生産される。

 

 

でも最近思うのは、

「”ファン”との境界はどこか」

ーーーすなわちそれらの有象無象の”オタク”にその嗜好対象についてたずねたときの返答の質はいつでも担保されるのだろうかーーー

ということである。

 

 

むろん、強い”オタク”が弱い”オタク”の理解度をなじることは得てしてありうる。なぜなら”オタク”は青天井であり、超上位層から見ればほかの誰だって大したことないはずだからである。しかし、ここで言いたいのはそういうことではなく、”オタク”の閾値、下限、必要条件はどうだろうかということだ。もちろん”ファン”と”オタク”は離散値をとらず連続しているだろうし、そのボーダー付近にはどっちともとれる曖昧なひとびとがいることは想像に難くない。とはいえ、少なくともある程度平均的な”オタク”からしたら「これを知らなければ”オタク”とは呼びたくない」となるような知識や経験が存在する(少なくとも僕はそう思う)。

 

 

嗜好対象であるコンテンツのサブさ、アンダーグラウンドさに加えて、「”オタク”的基礎、エッセンス」とでも呼ぶべきレベルの、すなわち「”オタク”と呼んでも構わないと多くの”オタク”が賛同する」レベルの「嗜好対象に対する理解」をある程度備えていることが、”オタク”であることの必要条件なのではないだろうか。

 

 

これを持たないひとを、たとえばモンハンを500時間プレイしているからといって”モンハンオタク”だとは呼びたくない。それはただ単にモンハンというコンテンツに時間をかけたというだけのことだ。500時間プレイしたと言っていても、肉質をあまり考えずに切ったりテンプレ装飾品セットしか使ったことがなかったりするやつは、安心してください、少なくとも”オタク”ではない。ここで注意したいのは、それでも別にあなたがモンハンをエンジョイする心は誰からも否定されることはないということだ。”ファン”で構わないのだ。”オタク”かもしれないといって気に病む必要はない。ひとにはひとの、楽しみ方があって全く問題ない。デカくてカッコいいモンスターをひとりで倒す、それは十分に気持ちいいことだ。

 

 

これを持たないひとを、たとえば毎日ビートルズを聴いているからといって”ビートルズオタク”だとは呼びたくない。それはただ単によく聴く曲がビートルズだというだけのことだ。毎日ビートルズを聴いていても、歌詞を聞き流していたりコード進行やグルーブ、使用される(あるいは使用されなかった)楽器のことすら考えなかったり、曲が出たタイミングやその当時の時代背景に興味がなかったりするやつは、安心してください、少なくとも”ビートルズオタク”ではない。ここで注意したいのは、それでも別にあなたがビートルズをエンジョイする心は誰からも否定されることはないということだ。”ファン”で構わないのだ。”オタク”かもしれないといって気に病む必要はない。ひとにはひとの、楽しみ方があって全く問題ない。カッコいい男たちの織り成す心地よい音楽をかけながら通勤する、それは十分に気持ちいいことだ。

 

 

そして、その「嗜好対象への基礎、エッセンス的な理解」を自覚することこそが、センスの源泉なのではないかと僕は考える。”ファン”とのボーダーを突破したひとびとには、これが備わっている。いわゆる「センスがある」というひとは、ほぼ初手で特に苦労せずともこれを体得したひとか、あるいは実は他人から見えないところで鍛錬したり時間をかけたりしてこれを体得したひとだと、僕は考える。一方で「センスが悪い」ひととは、何かひとつのことが曲がりなりにも好きになって時間や労力をかけたりしても対象への理解が深まらないひとであろう。

 

 

こう書くとなんだか「努力すればなんでもできる、努力が足りない」みたいなことを書いているような気にもなってくるがそうではなく、先天的な肉体的性質や性格、育ってきた環境に基づいた価値観などが障壁になることも往々にして(というか僕も含めてほとんどのひとがそうなのではないか)あり、それはある程度しょうがないものだと思う。だからこそ、それを乗り越えてその「基礎、エッセンス」を体得したひとというのはかっこよくもあり、また怖くもあり、また近寄りがたくもある。寿司の技術、造仏の技術、サッカーのフリーキックの技術、のように極めた対象が他人に受け入れられるものなのであればそのひとは「職人」と呼ばれることが多いし、あまり例は思いつかないが極めた対象が他人になじみのないものなのであればそのひとは忌避されたり理解されないことが多くなる、というだけのことだ。

 

 

ここまで考えると、”オタク”の数は実は思っていたほど多くないことが十分に考えられるし、嗜好対象の社会におけるなじみの有無に目をつぶれば、”オタク”はある意味で豊かな人生を送るためのスキルセットを持っている存在だとも言える。また、なにかに好奇心や愛着を持つのは人間らしくて好きだし、”ファン”にとどまっていたとしてもそれは全く恥ずかしいことではない。どちらも、いていいのである。

 

 

一方で”オタク”が問題になってくるのは、その嗜好対象そのものや、あるいは極める過程が、他人に迷惑をかける場合だろう。なんとも単純な話だ。だから”オタク”は自分たちの行動が社会的にどのような影響を持つのか、ひとに迷惑をかけないのか、日々見つめる必要がある。迷惑だと判断したなら基本的にはやめるべきだと僕は思うけれど、それを冒してでもたどり着きたい境地があるというのなら、その時は覚悟を決めて迷惑をかければよいだろう(このようなひとは傍から見れば「狂っている」ということになるのであろうが、天才と狂人は紙一重とも言うし、ある種の評価は手に入ることになるだろう)。しかも別にこれはそもそも”オタク”に限った話ではなく、社会で生きていくなら必須のスキルについて述べているにすぎない。

 

 

また、逆も然りというか、一部の人々の(他人に迷惑をかけることの少ないような)嗜好対象を理解できない大衆が、理解できないことによる恐れや不安を”オタク”への攻撃に転化させているにすぎない場合も問題になるだろう。これも「嫌い!」って感情があって人間的で好きだが、でもやはりなるべくいろんなひとたちの主張が最大限保証されるような社会であってほしいし、脳死で「嫌い」判定を下すのではなく、こちらも歩み寄る姿勢を持ちたいものである。

 

 

 最後に(めちゃくちゃ長くてごめんなさい、あともう少しで終わります)、いわゆる”ワナビー”の問題がある。”ワナビー”とは言ってしまえば「理想は高いけどそこに追いついていないひと」や「理想に追いついていないのに到達したと思い込んでいるひと」であり、どちらにせよたいていの場合は「理想と現実のギャップを直視しようとしないひと」である。追いつきたいならそれなりの対価は必要だし、それでも無理なら”ファン”として過ごすことを認めるべきで、また今までの議論によりそれは全く恥ずかしいことではない。だから”ファン”層は「エンジョイ勢」などと揶揄されることもあるがそれには僕は反対だし、努力するひとはかっこいいし応援したくなる。問題なのは、口だけで終わることだ。ビッグマウスであることは、行動が伴って初めて信用される、諸刃の剣だ。結果が出るかどうか以前に、行動しているか、実践しているかどうかがそもそも必要だ。やはり、ここでも、痛い夢追い人で終わらないように、「基礎、エッセンス」を身に付けるために日々実践を積み重ねる、とにかく自分事としてやってみるしかないし、だめなら潔く諦めるしかない、その2点に尽きる。

 

 

人事を尽くして天命を俟つ、ってのは多分そういうことなんだと思っています。

長々とありがとうございました。

 

 

 

夜更かしクン