internet-boyzの日記

4人で交換日記をしています。

フーコー『知の考古学』を読む①

 どうも。前回は読書メモと言いながらかなりリーダビリティの小さい文章を投稿してしまったので、リベンジと思い、今回から定期的に『知の考古学』を初めから読んでいく記事を書いていこうと思います。

 

 いつも書いてるテキトーな日記もやめないけどね。

 

 ここでなぜ『知の考古学』かというと、それは以下の通りです。私は最近ずっとヘーゲルの歴史や哲学史にまつわる方法論に興味があって勉強を進めているんですが、そればっかり読んでいてもなと思うので、息抜きにより現代に近しい人の歴史論を読んで参照点としたいなと思っていました。聞くところによると、『知の考古学』はまさにヘーゲルの歴史論っぽいものの敵として、それと変わる方法論を提示しているようです。というわけでこの場を借りて読んで行こうかなと思ったしだいです。人から見られている方が義務感で続くもんね。

 

 そこで『知の考古学』を読むに際する私の方針は以下の通りです。

・基本的には邦訳(慎改康之, 河出文庫, 2012)で読み進め、適宜原典を確認する(とはいえ手元にないので後で入手しておこうと思います)

・精読はしない。章や節などで区切り、毎回大体20ページくらい読む。

ヘーゲルの歴史論に対する批判っぽいものをできるだけ汲み取る

・できる限り方法論っぽい話や哲学研究における慣習について言及する議論に対して感度を高めておく

 

 まぁこんなところでしょうか。専門家ではないので誤読が頻出すると思います。もし読み間違いを見つけたときには私のためにも必ず指摘してください。この記事の読者の義務です。私の想定している読者(あなたのことです)は非研究者ですので、その点について留意いただければと思います。

 

 

 

 今回はざっと諸論を読んでいこうと思います。

 

 

<諸論>

 

 邦訳で二ページほどと短いですが、当書が何をやっているのかを端的に示しており、かなり助かります。

 曰く、『知の考古学』は「以前の著作について、私が一体何をやりたかったのかということを、これから説明する」のであり、より正確に言えば「少々先へ進みつつ、いわば螺旋状の回転によって、私自身が企てたことの手前に立ち戻る」ためのものです。螺旋の比喩については把握しにくいですが、「先に進んでること」と「手前に戻る」ということを両立させて表象させるためのものだと思います(頭の中にxyz空間を取って、原点からz軸方向に螺旋階段が伸びていくのを思い浮かべると、螺旋が丁度n周した瞬間のxy座標は0z座標は進んでる、みたいな感じですかね(?))。私見では、循環の問題が扱われる際にこういう比喩がよく用いられるように思います。

 フーコーはここで早速「考古学」という語を導入しますが、これは「諸々の言説を記述すること」を目的にするものであり、「書物」や「理論」を問題とするわけではないと言われます。そうした半ば後付け的に整合性を与えられたような、境界がはっきりしているものとしてお墨付きが与えられたようなものではなく、より曖昧な言説の集合体、例えば「医学なるもの」や「生物学なるもの」を対象とするようです。この微妙な言葉遣いが重要になることが強調されており、フーコーはこうした言説の集合体が「絶えず変化を被る匿名で主体なきものである」ものの「自律的な領域を形成している」という論点へと拡張されることを仄めかしています。言いっぱなしなので具体的なことについては読み進めていくしかないでしょうね。

 こうして「アルシーヴ」という、よく取り沙汰されるいまだにどういう意味を持っているのか把握できない語もまた導入されます。「語られたことの領域」の言い換えとしてこの語が導入されており、兎にも角にもこの領域を——フーコーは今までの思想史研究においてこれが明るみに出されることはほとんどなかったと診断します——暴露すること、「非連続的性」を明るみに出すことが『知の考古学』の目的であると宣言します。

 私の拙いフーコー理解だと、彼は科学哲学・科学史の分野でキャリアをスタートさせ、『狂気の歴史(1961)』や『臨床医学の誕生(1963)』という科学史らしい(科学史のスタンダードな著作というものを知りませんが)著作で有名になったのち、『言葉と物(1966)』でこれまでの科学史っぽい話をしつつ自らの方法論を少し開示、そうして『知の考古学(1969)』でより方法論的な話に焦点を当てた議論を書いた、と把握しています。私の友人の中には『監獄の誕生』を好んで読んでいる人が何人かいますが、あれはもっと後の1975年らしいです。うろ覚えですが、筑摩社からでてる慎改先生の入門書では心理学とは人間的なものを志向していたより早い時期のフーコーが紹介されていました。この辺りの履歴はまだ全然見通せてないです。

 以前ホネット『権力の批判』を読んだときには、フーコーの『知の考古学』の試みが成功していたのかどうか吟味されていました。ホネットの読みだと、そこでのフーコーの試みは「いかにして自分自身の枠組みを、そこから逃れつつ評価・批判するか」というものであるとされ、最終的には失敗してしまうと判定されます。このような判定を下したホネットは次いでハーバーマスの社会理論を検討し、そちらに批判理論としての優位性を認めます。こうした判定を確かめることも留意しつつ、このまま読み進めていきたいですかね。

 ところで、ホネットの理解による当書の試みですが、例えばオリエンタリズムみたいな領域がよく従来のアジアアフリカ研究に対する批判として使っていた、「他文化に目を向けることが大事と言いつつ結局のところ自文化を基準にした評価をしているじゃないか」といった話を思い浮かべればわかりやすいかと思います。こうした解釈枠組みが超越論的なものあどうかはなんとも言えませんが(哲学ではよく「超越論的」という語が使われます。差し当たり「語がたい領域にあり、それ抜きでは日常経験におけるあらゆることを理解したり認識したりすることが不可能になってしまうようなもの」と捉えておいて構いません)、『哲学探究』の「私は自分の座っている枝を切り取るわけにはいかない」といったフレーズが想起されます。「所与の解釈枠組みから抜け出しつつその枠組みを理解するなんて、一体どうやって?」っていうことですね。

 よくポストモダンの人々にカテゴライズされ(、そして本人がそのことを拒否していたことが語られ)るフーコーですが、個人的にはその辺りの領域の人たちよりも文章が読みやすいと思っています。あんまり数読んでるわけじゃないけどね。

 そのような感じで、取り敢えず諸論はおしまい。現時点では謎ばかりですが、そういうものでしょう。

 

 

 本当は今回序論も読んでしまおうと思ったんですが、体の調子が悪くなってきたのでここまでにします。疲れたので寝ます。ご指摘やご質問、お待ちしてます。

 

オハラク