internet-boyzの日記

4人で交換日記をしています。

遊びの訓練としての大喜利

こんばんは。はじめまして。ブリです。ブリを見るのも食べるのも好きです。

 

 

5万年ぶりに2日連続でスタバをたべました。期間限定のイチゴフラペチーノです。

「シュワっと」と「ゴロっと」の2種類があるんですけど、こんな雨の時期には「シュワっと」がおすすめです。サッパリするね。

 

 

僕からは、歴史の話とか生き物の話、文化みたいなものの話をしていくかもしれません。どうぞよろしくお願いします。

 

 

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今回は「遊び」について書いてみたいと思います。

「遊び」ってなんだろう。

 

 

公園でおにごっこをすること、友人宅でゲームをすること、ディズニーランドに行くこと、スタバに行くこと...?

ウィキペディア的にはこんな感じ。

遊び(あそび)とは、知能を有する動物ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。類義語として遊戯(ゆうぎ)がある(詳細後述)。

遊びは、それを行う者に、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わないのであり、たとえ他者への悪意に基づく行動であっても当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる(むろん、他者はそれを容認しない)。

 まあそうだよねって感じですね。心を満足させること。楽しいこと。気持ちいいこと。

そんなことはわかってるんだけど、でも年齢を重ねるにつれて、「あれ、どうやって遊んでたんだっけ」「昔楽しかったことが楽しくない...」ってなってくるひともいるのではないでしょうか。

楽しいことをすればいいのはわかっているけれど、自分が何を楽しいと感じるかわからなくなってしまう。あるいは、時間的・金銭的・社会的な制約で、今までのようには遊べなくなるとか。

これに対するよくある答えとしては、「自分の心の声に耳を傾ける」だとか「とにかくなんでもやってみる、新しいことを始めてみる」みたいなのがありますね。それもアリだと思います。

 

 

で、最近僕が感じている「遊び」観は、

「論理をふまえながら論理から上手に逸脱すること」

です。急にめんどくさくなってきましたね。もう少しかみ砕いて言うと、

「場の空気とか、セオリーとか、それまでに積みあがってきたものを理解したうえで、それを”うまく”ちゃぶ台返しすること」

です。もっともっと卑近な例で言うと、

大喜利がうまいひと」

です。

 

 

この間、このブログをやっている4人で夜な夜な大喜利をしていました。

お題は「こんな焼肉屋は嫌だ」です。

 

ほんで、僕が感じた一番おもしろい答えは、友人Mの初っ端の答え、「鶏皮にタトゥーが入っている」でした(おもしろくないと思った方、すみません。僕はこれ大好きなんです。おもしろいということにして、以下お付き合いください)。

タトゥーって、本来は人間だけが入れるものです(もちろん、家畜に識別用の焼き印を捺したりはしますが、ファッションとして、または信念表現の手段としてタトゥーを入れるのは人間だけだと思います)。それがなぜか鶏皮に入っていて、この「アタリマエ=本来なら」というものがぶっ壊れています。たしかに食べたくないですね。でも誰かが入れたのか、ニワトリが自分で入れたのかはわかりませんが、どっちにしても見たらびっくりするし、シュールでおもしろい。しかも、絵が彫ってあるのか、言葉が彫ってあるのか、いろいろ気になる。想像の余地まであります。つまり、(これは笑いの別の側面ですが)出オチ的なネタではなく、考えるほどジワジワおもしろくなってくる、深めのネタとしても仕上がっています。

一方で、焼肉屋の少しダークな雰囲気とタトゥーがマッチしているし、焼肉屋で鶏皮が出てくるのも違和感はありません。ここらへんはうまく「焼肉屋のアタリマエ」をふまえることができています。

僕がいま言語化できるのはここまでですが、たぶん、この答えには「アタリマエをふまえつつ、それをちゃぶ台返しする」という構造がもっと隠れているような気がしています。

 

で、ここで今思いついたおもしろくない答えをいくつか挙げてみます。

 

①場のアタリマエを理解してはいるが、ちゃぶ台返しが下手

「食べ残した肉は持ち帰り可」

焼肉食べ放題だと、頼み過ぎて食べきれない、とかはまああり得るシチュエーションです。ここまでは、「焼肉屋」での「アタリマエ」をふまえることができています。でも、持ち帰り可能なのは別に嫌でもないし、「ふーん」って感じです。

 

②場のアタリマエを無視したちゃぶ台返し

「逆立ちしながら入店することを強要される」

まあ確かに嫌です。嫌ですけど、それ別に焼肉屋じゃなくても嫌です。この系統だと、「ジンバブエドルでしか決済できない」とかもあります。

 

適切な反例になっているのかわかりませんし、プロの方々からするともっと突っ込みたいところもあるかもしれませんが、とりあえずこんな感じです。大喜利の根底にあるのは、「アタリマエをふまえつつ、それをちゃぶ台返しする」という営みです。

遊びとは「場の空気とか、セオリーとか、それまでに積みあがってきたものを理解したうえで、それを”うまく”ちゃぶ台返しすること」って上で書きましたが、ちょっとはニュアンスを感じてくれたかな…

 

 

この構造、子どものいろんな遊びにおいて実はみられるのではないかな、と思っています。

小学生の時に毎日近所の公園でやる鬼ごっこ、あれは飽きます。でもなんで毎日鬼ごっこをできていたかというと、ルールの細かい改変がたびたびあったから。今までの「アタリマエ」を踏まえた上で、マンネリ化を防ぐようなうまいルール(行動範囲の限定、缶を蹴って飛ばす距離の最低ライン決め、滑り台を安置=アジールとして設定、など)が考え出されていました。これが下手だと、みんな鬼ごっこをやめて離れていきます。ネトゲにおける、改悪アップデートによりユーザーが離れてサービス終了、ってやつです。うまく遊べるやつは、このうまいルール改変をぽんぽん思いつくやつでした。また、そのルールを理解してルールの間隙をうまいこと縫うことができる、「やり手」もなかなかかっこいいやつでした。

あとは、土手で遊べるやつとか。何もないように見えるなかで実は草や石や水があって(=これがこの例におけるアタリマエ)、それに気づいたうえでそれを使ってどう遊ぶか。

ダジャレもそんな気がします。ふとんがふっとんだ、だと、「ふとん」「ふっとぶ」はそれ単体では何もおもしろくはありませんが、組み合わさることで、「ふとんがふっとんだ」というフレーズに、「ふとんがふっとぶ」という言葉に即したイメージとは別に、「音が同じ」みたいな別の側面が立ち現れてきます。この別視点のうまい提示というか意外性みたいなものに、小学生の僕は喜んでいたのかもしれません。

 

 

とはいえ、いい大人にもなって公園で遊べねえよ...というひとも多いと思います。じゃあどうするか。

「場の空気とか、セオリーとか、それまでに積みあがってきたものを理解したうえで、それを”うまく”ちゃぶ台返しすること」

これをうまいこと生活に取り入れていく中で、少しずつ、少しずつ、「あ、楽しいな」と思える瞬間を増やしていくのがいいんじゃないかな、と思います。

友人とzoom飲みで大喜利をしてみるのも、そういった意味では「上手に遊べるようになるための訓練」としていいんじゃないかなと思いますし、わざと一駅遠くから帰ってみるとか、カレーにタコを入れてみるとか、なんでもいいんじゃないですかね。ここまではまあ、それなりにやったことのあるひともいると思います。でも今までの話をふまえると大事なのはここからで、いろいろ試しながら、「この外し方はうまいし理にも適っているな」「これは前提無視してぶっ壊してみんなに迷惑かけた」みたいなのを自覚して、ちょっとずつじぶんの中に経験としてストックしていくと、その先にいつしか、

「上手に遊べるじぶん」

「いつでもどこでも遊べるじぶん」

「特別なことはしていないけど、なんだか毎日が楽しいじぶん」

がいるんじゃないか。センスって、そうやって磨かれるんじゃないか。その楽しさは、他人に振り回されることのない、じぶんだけの楽しさなんじゃないか。

最近はそんなことを考えています。

 

 

長々とありがとうございました。

 

 

 ブリ

 

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サッカーで言うと、川崎フロンターレの家長選手とかがまさにこのスタイルです。実はこの話を一番したかったのかもしれない。マニアックな話ですみません。

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川崎フロンターレは、「ボールを止める、蹴る」の基礎的なスキルが高い選手が多く、「こうしたら次はこうする」「あいつにボールが渡ったらお前はこう動け」という約束事の多いチームなんですけど、彼だけは「天才」として一目置かれ、「フリーマン」として自由にプレーすることが仲間から認められていると言われています。おそらく、11人全員が規則正しくストイックにプレーすることは一定の(というかかなりの)強さに繋がりますが、裏を返せば決まり切っているぶん対策しやすいとも言えます。でも、そのアタリマエをうまく外してプレーする選手が現れることで、対策側は「セオリー通りに来るのか、自由人家長が来るのか」の二択を突き付けられ、認知コストを割かれ、対応が遅れたり、守備意識に乱れが生じたりします。結果的にどちらに転んでもうまいプレーに繋がりやすくなります。また、家長自身も全く自由かと言われるとそうではなく、川崎というチームのやり方を熟知したうえでの逆張り的ポジションを取ることが多いです。彼は、うまく自由を手に入れているように見えます。その「うまい自由」によって生み出された美しいプレーを観て、観客は彼を「おもしろい、天才だ」と思うのではないでしょうか。