internet-boyzの日記

4人で交換日記をしています。

『BLEACH』から入門する愛の倫理学

そろそろ愛を完全に理解したいみたいな感じになってきました。

そこで今日は『BLEACH』の巻頭ポエムを題材に、愛に関する倫理学的な議論に入門してみたいと思います。

 

BLEACHを知らない方は基本的にいらっしゃらないと思います。

久保帯人先生が2001年から2016年まで週刊少年ジャンプで連載されていた作品ですね。

 

巻頭ポエムは単行本の表紙を開いてすぐのページに載ってるアレです。

 

コレ

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こういうのを使って愛を完全に理解する準備をしていきましょう、というのがこの記事の趣旨です。

 

 

 

 

まず一つ目

あからさまなものから行きましょう。

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「人は皆、猿のまがいもの

神は皆、人のまがいもの」

(『BLEACH 48巻』より)

 

 

後半が「神は皆、人のまがいもの」であることから、このポエムはフォイエルバッハに言及するものだと推測されます。

ご存知の通り、フォイエルバッハ(1804-1872)は、キリスト教神学とそれにおける絶対者観を理論の中心に添える西洋哲学を批判し、むしろ現実の人間を理論の中心に置く人間学(antholopology)構想を提示した19世紀の思想家です。

(とはいえ彼自身はキリスト神学に強く反対するわけではなく、むしろ人間学的な洞察を基礎に添えることで神学理論を掬おうとしているといった方が正しいかもしれません。このあたりはレーヴィットが『ヘーゲルからニーチェへ』で指摘する通りです。)

 

彼の人間学構想のポイントは、「神は人間の作り物であり、神の本質はそもそも人間の本質が投射され拵えられたものである」ということです。

(一応ここには「自己疎外論」といった議論が下敷きになっているんですが、紙幅の都合上本記事はこれに立ち入らないことにします。)

 

このポイントがまさに久保先生のポエム後半で言われていることなのですが、以下これがなぜ「愛」概念と関連するのか見ていくことにします。

 

フォイエルバッハが『キリスト教の本質』において上記の議論を詳述する際、神および人間の諸能力に言及しながら、前者の能力の源が後者のそれにあることを示します。

これは伝統的には神が無限な存在者であり、人間が有限な存在者であるとされてきたこと、また人間がそうした無限な存在者である神の被造物だとされてきたことに対して、そうした神に関する諸々の発想がむしろ人間の自分自身に関する知識に依存していること彼は指摘します。

 

その中で人間の諸能力として挙げられているものが、「理性能力」「悟性能力」「感性能力」であり、特に最後の感性能力がとりわけ愛というものに結び付けられていくわけです。

 

 

なんかここまで偉そうに書いといてアレなんですけど本当にこういう議論の仕方になってるのか自信なくなってきました。

 

第一部第七章とかで「他我に対する愛」という形で彼の有名な「我--汝共同体」みたいな議論に繋がっていくと思うんですけど、その辺りと能力論との関連もわかんないし...。

 

ちょっとわかんなくなって悲しくなっちゃんたんで今回はこの辺にしておきます。後ほどフォイエルバッハ読み直して加筆修正するか第二回みたいな形で改めて書こうかな。何個かBLEACHのどのポエムを扱うか考えてたんだけど...。

まぁ、ぼく愛の専門家でもなんでもないし、しょうがないかな。

 

あと最後に。今回扱ったポエムの前半部「人は皆、猿のまがいもの」に関して、おそらくフォイエルバッハ自身はむしろ動物と人間の能力の差を強調しているように見えました(動物には動物の神、人間には人間の神、みたいな話があったような?)。

久保先生はきっとフォイエルバッハにおける動物存在(対象意識)と人間存在(自己意識)との関連に関して、かなり挑戦的な新解釈を敢えて提示しようとしている、とみて間違い無いでしょう。

 

じゃあ、それでは。

 

オハラク