internet-boyzの日記

4人で交換日記をしています。

人事を尽くして天命を俟つ

”オタク”について、思うところがあったので書いてみようと思う。なお、”オタク”という言葉が指し示す対象はこんにちではあまりにも広すぎるように感じるため、今回ここで書くことは”オタク”の一側面をかすっているにすぎない可能性が十分にある、と初めに言い訳をしておく。

 

 

まあ言ってしまえば、「オタクであるための閾値が下がってないだろうか」ということである。

 

 

「アニメが好き」「アイドルを推している」「ゲームにハマっている」だけで、果たしてひとは”オタク”になれるのだろうか。ひとを”オタク”と呼んでいいのだろうか。

 

 

世間では、というかとりわけお茶の間を煽るようなマスメディア的には、上で挙げたような性質を持っていれば”オタク”と認定していることが多いのではないだろうか。また、”オタク”の発生過程というか、初期の”オタク”を垣間見てきた(そして、その後”オタク”観がアップデートされていないような)歴史の生き証人とでも呼ぶべき我々の親世代(50~60代)も同様の感想を抱いているように思う。”フツーな自分たち”にとってなじみがないようなサブでアンダーグラウンドなコンテンツに「触れて」いるひとは、まあすべからく”オタク”なのだ、という考え方である。ストーカーの家から少女マンガが発掘されれば、「ああやっぱりね」となり、もうそれだけで大満足なのである。

 

 

時は流れ、”オタク”という言葉がより一般に膾炙するようになる。この感覚に晒されてきたこどもたちは、マンガやゲームが好きになると、自分のことを”オタク”なのではないかと(その事実を受け入れるかどうか、また受け入れたがるかどうかは別として)ある程度考えるようになる。結果、”オタク”は安易に再生産される。

 

 

でも最近思うのは、

「”ファン”との境界はどこか」

ーーーすなわちそれらの有象無象の”オタク”にその嗜好対象についてたずねたときの返答の質はいつでも担保されるのだろうかーーー

ということである。

 

 

むろん、強い”オタク”が弱い”オタク”の理解度をなじることは得てしてありうる。なぜなら”オタク”は青天井であり、超上位層から見ればほかの誰だって大したことないはずだからである。しかし、ここで言いたいのはそういうことではなく、”オタク”の閾値、下限、必要条件はどうだろうかということだ。もちろん”ファン”と”オタク”は離散値をとらず連続しているだろうし、そのボーダー付近にはどっちともとれる曖昧なひとびとがいることは想像に難くない。とはいえ、少なくともある程度平均的な”オタク”からしたら「これを知らなければ”オタク”とは呼びたくない」となるような知識や経験が存在する(少なくとも僕はそう思う)。

 

 

嗜好対象であるコンテンツのサブさ、アンダーグラウンドさに加えて、「”オタク”的基礎、エッセンス」とでも呼ぶべきレベルの、すなわち「”オタク”と呼んでも構わないと多くの”オタク”が賛同する」レベルの「嗜好対象に対する理解」をある程度備えていることが、”オタク”であることの必要条件なのではないだろうか。

 

 

これを持たないひとを、たとえばモンハンを500時間プレイしているからといって”モンハンオタク”だとは呼びたくない。それはただ単にモンハンというコンテンツに時間をかけたというだけのことだ。500時間プレイしたと言っていても、肉質をあまり考えずに切ったりテンプレ装飾品セットしか使ったことがなかったりするやつは、安心してください、少なくとも”オタク”ではない。ここで注意したいのは、それでも別にあなたがモンハンをエンジョイする心は誰からも否定されることはないということだ。”ファン”で構わないのだ。”オタク”かもしれないといって気に病む必要はない。ひとにはひとの、楽しみ方があって全く問題ない。デカくてカッコいいモンスターをひとりで倒す、それは十分に気持ちいいことだ。

 

 

これを持たないひとを、たとえば毎日ビートルズを聴いているからといって”ビートルズオタク”だとは呼びたくない。それはただ単によく聴く曲がビートルズだというだけのことだ。毎日ビートルズを聴いていても、歌詞を聞き流していたりコード進行やグルーブ、使用される(あるいは使用されなかった)楽器のことすら考えなかったり、曲が出たタイミングやその当時の時代背景に興味がなかったりするやつは、安心してください、少なくとも”ビートルズオタク”ではない。ここで注意したいのは、それでも別にあなたがビートルズをエンジョイする心は誰からも否定されることはないということだ。”ファン”で構わないのだ。”オタク”かもしれないといって気に病む必要はない。ひとにはひとの、楽しみ方があって全く問題ない。カッコいい男たちの織り成す心地よい音楽をかけながら通勤する、それは十分に気持ちいいことだ。

 

 

そして、その「嗜好対象への基礎、エッセンス的な理解」を自覚することこそが、センスの源泉なのではないかと僕は考える。”ファン”とのボーダーを突破したひとびとには、これが備わっている。いわゆる「センスがある」というひとは、ほぼ初手で特に苦労せずともこれを体得したひとか、あるいは実は他人から見えないところで鍛錬したり時間をかけたりしてこれを体得したひとだと、僕は考える。一方で「センスが悪い」ひととは、何かひとつのことが曲がりなりにも好きになって時間や労力をかけたりしても対象への理解が深まらないひとであろう。

 

 

こう書くとなんだか「努力すればなんでもできる、努力が足りない」みたいなことを書いているような気にもなってくるがそうではなく、先天的な肉体的性質や性格、育ってきた環境に基づいた価値観などが障壁になることも往々にして(というか僕も含めてほとんどのひとがそうなのではないか)あり、それはある程度しょうがないものだと思う。だからこそ、それを乗り越えてその「基礎、エッセンス」を体得したひとというのはかっこよくもあり、また怖くもあり、また近寄りがたくもある。寿司の技術、造仏の技術、サッカーのフリーキックの技術、のように極めた対象が他人に受け入れられるものなのであればそのひとは「職人」と呼ばれることが多いし、あまり例は思いつかないが極めた対象が他人になじみのないものなのであればそのひとは忌避されたり理解されないことが多くなる、というだけのことだ。

 

 

ここまで考えると、”オタク”の数は実は思っていたほど多くないことが十分に考えられるし、嗜好対象の社会におけるなじみの有無に目をつぶれば、”オタク”はある意味で豊かな人生を送るためのスキルセットを持っている存在だとも言える。また、なにかに好奇心や愛着を持つのは人間らしくて好きだし、”ファン”にとどまっていたとしてもそれは全く恥ずかしいことではない。どちらも、いていいのである。

 

 

一方で”オタク”が問題になってくるのは、その嗜好対象そのものや、あるいは極める過程が、他人に迷惑をかける場合だろう。なんとも単純な話だ。だから”オタク”は自分たちの行動が社会的にどのような影響を持つのか、ひとに迷惑をかけないのか、日々見つめる必要がある。迷惑だと判断したなら基本的にはやめるべきだと僕は思うけれど、それを冒してでもたどり着きたい境地があるというのなら、その時は覚悟を決めて迷惑をかければよいだろう(このようなひとは傍から見れば「狂っている」ということになるのであろうが、天才と狂人は紙一重とも言うし、ある種の評価は手に入ることになるだろう)。しかも別にこれはそもそも”オタク”に限った話ではなく、社会で生きていくなら必須のスキルについて述べているにすぎない。

 

 

また、逆も然りというか、一部の人々の(他人に迷惑をかけることの少ないような)嗜好対象を理解できない大衆が、理解できないことによる恐れや不安を”オタク”への攻撃に転化させているにすぎない場合も問題になるだろう。これも「嫌い!」って感情があって人間的で好きだが、でもやはりなるべくいろんなひとたちの主張が最大限保証されるような社会であってほしいし、脳死で「嫌い」判定を下すのではなく、こちらも歩み寄る姿勢を持ちたいものである。

 

 

 最後に(めちゃくちゃ長くてごめんなさい、あともう少しで終わります)、いわゆる”ワナビー”の問題がある。”ワナビー”とは言ってしまえば「理想は高いけどそこに追いついていないひと」や「理想に追いついていないのに到達したと思い込んでいるひと」であり、どちらにせよたいていの場合は「理想と現実のギャップを直視しようとしないひと」である。追いつきたいならそれなりの対価は必要だし、それでも無理なら”ファン”として過ごすことを認めるべきで、また今までの議論によりそれは全く恥ずかしいことではない。だから”ファン”層は「エンジョイ勢」などと揶揄されることもあるがそれには僕は反対だし、努力するひとはかっこいいし応援したくなる。問題なのは、口だけで終わることだ。ビッグマウスであることは、行動が伴って初めて信用される、諸刃の剣だ。結果が出るかどうか以前に、行動しているか、実践しているかどうかがそもそも必要だ。やはり、ここでも、痛い夢追い人で終わらないように、「基礎、エッセンス」を身に付けるために日々実践を積み重ねる、とにかく自分事としてやってみるしかないし、だめなら潔く諦めるしかない、その2点に尽きる。

 

 

人事を尽くして天命を俟つ、ってのは多分そういうことなんだと思っています。

長々とありがとうございました。

 

 

 

夜更かしクン