internet-boyzの日記

4人で交換日記をしています。

フーコー『知の考古学』を読む②——序文I

チェンソーマンガチで辛かった。

どうも、オハラクンです。

フーコーの二回目です。今日の範囲は邦訳(慎改訳, 2012)の9-16頁です。

まだ原文を入手できてなくて邦訳をざっと眺めているだけですが、すごくおもしろくてすごくよかったし、すごくうれしかったです。

 

 

(以下、鉤括弧「」はフーコーからの引用を示し、二重引用符””は私が便宜的に用いる語を示します。)

 

 

 前回は二ページほどしかない諸論を読んで、ザックリとフーコーの当書でやりたいであろうことを確認しました。それによると、「「語られたこと」のレヴェルを、その種別性出現させ」ることでした。

 

https://internet-boyz.hatenablog.com/entry/2020/08/07/225218

↑前回のはこれ

 

 

 さて今回からは序論に入ります。今回の箇所でフーコーは、思想史の記述および狭義の歴史(例えば経済史や技術の歴史)の記述の、フーコーの時代における潮流について議論をすることから、『知の考古学』の課題意識を描写することを始めています。

 この箇所を読むにあたって、かつての歴史家(思想史家および狭義の歴史家)フーコーの時代における思想史家フーコーの時代における狭義の歴史家三者を区別することが重要であり、この点から整理していきます。

 

 

(しばらく難しい話が続きますが、最後にポイントだけ平易にまとめようと思います!最悪そこだけ読んでも構いません。)

 

 

 まずかつての歴史家(かつての思想史家および狭義の歴史家)は、以下のような「伝統的な問い」を扱うとフーコーは判定しています。その問いとは、「雑多な出来事のあいだにいかなる結びつきを打ち立てればよいか、それらを貫く連続性とは、あるいはそれらが最終的に形作る総体的な意味作用とは、いったいどのようなものか、一つの全体性を定義することができるのか、それとも諸々の連鎖を再構成するだけにとどめなければならないのか、といった問い」です。

 こうした歴史に対して、フーコーの時代においては以下の二つの新しい歴史記述についての潮流が出現していると言われます。まず一つ目はフーコーの時代における狭義の歴史であり、それは「数十年前から...長い期間の方へ関心を向けるようになっている」と、フーコーは判定します。すなわち「経済成長のモデル、貿易フローの量的分析、人口増減の記録...」等々といった「諸々の道具」によって「線状の契機に代わって、深層における連結解除の作用が、以後探究の対象とされるようになった」ということです。

 最後の「線状の契機」「深層における連結解除」がややわかりにくいですが、すぐにわかりやすく言い換えられます。すなわち、「分析のレヴェルは...多種多様化する」ということであり、「各々のレヴェルが自らに種別的な断絶を持ち、自身にのみ帰属する切り分け方を含むようになる」ということです。具体例を出せば、伝統的な歴史記述において支配的であった、「統治、戦争、飢饉によってせきたてられる」他の人間の生活様式に対して支配的に振舞うような統一的な歴史記述から、そうしたテーマに下属するとされていたサブテーマ的な領域(ここでは経済や海路、穀物や金鉱、干魃や灌漑の歴史などが例に挙げられています)がそこから独立した形で記述されるようになる、ということです。「長い期間への関心」と言われていたことについては、例えば「伝統的」な歴史研究においては1900年から1950年における戦争と政治について探究されていたのに対し、フーコーの時代における「狭義の歴史家」は2000年間の穀物の歴史について探求が行われている、というように私は理解しました。

 さて、これと同時に発生した二つ目の潮流とは、フーコーの時代における思想です。それは「「時代」や「世紀」として記述されていた諸々の大きな統一体から、断絶の諸現象の方へと」関心を移動させるものです。ここではアルチュセールバシュラール、カンギレムの術語が代表的に紹介され、これらの術語によって表現されている思想史研究者の共通見解によって、2000年以上の歴史を持つ哲学史を貫徹する「精神にとっての唯一の地平」「永続する基礎」といったイメージが放棄され(例えばヘーゲルの歴史哲学はこれらを想定するものとして数え上げられることができるでしょう)、哲学史において各時代は「それぞれの尺度において」、「相次いで登場する使用規則」の場であるということが想定されるようになりました。これはは、先におけるフーコーの時代における狭義の歴史家の手法と明確に区別されます。すなわち「狭義の歴史学、本来の意味での歴史学が、変化の少ない構造を強調しつつ出来事の闖入を消し去っているように思われる」のに対して、「思考、認識、哲学、文学の歴史は、断絶を増殖させ、非連続性の屹立のすべてを探し求めようとしている」ということです。「断絶が増殖される」ようになるというのは、噛み砕くとすると、「プラトンからカントまで千何百年の思想史を書くことで、思想というものの本質的な姿を明らかにしようとする」という立場から、「統一的な精神の場なんてものはないことを理由に、デカルト省察』をその固有性において研究することで、その前後の思想とは独立の領野を見て取ろうとする」というような立場へと代わっていくことであると理解できます。

 

 

 

 

 

さて、これまでの話をできる限りわかりやすく整理したいと思います。

今回の話は以下の三つの立場があるということだけ把握できればオッケーです。

 

一つ目の立場は、かつての伝統的な歴史学で、それは政治や戦争をテーマとしつつ他のサブテーマすべてを含む統一的な歴史を研究します。これは従来の哲学史研究においてもそうで、唯一不変の基礎のもとに哲学史を描こうとします。

 

二つ目の立場は、新しい狭義の歴史研究で、それは以前の歴史研究において単にサブテーマとしてメインテーマに服属せしめられていたもの、例えば穀物や海路の歴史などをそうしたメインテーマから独立のものとして扱いつつ、例えば2000年などといったより長いスパンにおいてその緩やかな変化を研究します。

 

三つ目の立場は、新しい思想史研究で、それは「不変の基礎」を描き出すのではなく、例えば一つのテクストに集中するといった形で、むしろ「変化」「断絶」「非連続性」の数々を描き出そうとします。

 

これだけです!次回以降で、二つ目の立場と三つ目の立場は、方法としては全く違うものの、しかし同様の問題提起によって一つ目の立場から分化してきたものであると示されますが、ひとまずは三つの立場があるということだけ理解しておきましょう。

 

 

 

 

以下、私の感想です。私は今回の議論の中で新しい思想史研究についてのものを面白く読むことができました。というのも、「一つの作品、一つの理論、一つの概念、一つのテクスト」を「他から切り分け」、「その種別性において」研究するという方法論に私が普段から浸っているからであり、こうした往々にして問いに付されることがないような私たちの実践(例えば「概念の使用規則」というフレーズが使われていましたが、まさに私たちの哲学研究における規則)への眼差しをフーコーが強く有しているということが確認されてからです。このように私たちの研究実践に関するいい話を拾っていきたいんですが、まぁ今回はまとめただけでも疲れたのでまたボチボチ考えてみます。

 

 

それでは。それにしても海行きたいな〜八月全然遊んでない。

オハラク

疎外感

最近、周りの同世代の人間が、将来の話をすることが多くなった。

 


僕は友達が少ない

特に、今通っている大学には友達が本当に少なく、学科の同級生の顔も名前も殆ど知らない。

休日などに個人的に遊びに行くような友達も、1人だけである。

ただ、ありがたいことに、そんな僕でも何か理由のある飲み会などには誘われることもあり、そのおかげで人と酒を飲む機会はある。

 


そして、そのような席では、もう我々も20代半ばに差し掛かろうとしているからか、将来の話になることが多い。

そんな時、たまに、「お前はどうなの?」と、唐突に「将来の話インタビュー」が僕に向けられることがある。

そんな時は決まって、「うーん、俺はまあ…何も考えてないかな笑」みたいなことを言い、適当にやり過ごしている。

そしてそのたびに、「お前もう少しちゃんと考えたほうが良いぞ〜」などの、軽いお叱りを受けたりしている。

 

 

……おーーーい。

 

 

何も考えてないかな笑、で本当に何も考えてないと思う奴、センター現代文2点だろ!お前漢字1個合うくらいだよマジで!話すのが嫌だからテキトーに流してるに決まってるだろ、バーーーカ!お前は本当に一生センター現代文2点だよ!バカが代、斉唱?

……まあ、センター現代文はちゃんと選択肢の根拠が本文にあるので、厳密に言うと違うんだが。

(そして折角気にかけてもらって誘われておいてこんな文句をタラタラと言うのもよろしくないが。)

 

 

で、僕の将来のビジョンはというと、まあ、全くもって所謂フツー(こんな表現、したくはないけれど)とはズレている。

結婚願望も無いし、子供も好きだけどほしくはないし、おっさんになっても延々好きなことをしていたいし、浪費癖に対して開き直っているし、医者として臨床の道に進む気も今のところないし(産業医志望である)、逆に産業医のやる気ははちゃめちゃにあるし(突然臨床に進むと言い出すかもしれないが)。

将来の夢といえば、医者として一人前になること、音楽を続けること、その上で自分の思い描く具体的な段階があって…あとは自分の好きなことに正直であり続けること、その上で音楽以外にも興味があることを活動として形にしたり…絵描いてみたいなとかエッセイの連載持ちたいなとか。

でもこれを事細かに言うと、まあものの見事に一瞬にして空気の読めないヤツになってしまうことは、わかりきっている。

僕のそんな浮ついた(僕は浮ついているとは全く思っていないが)話なんて、興味もないだろう。

そのため、「何も考えてないかな笑」で毎回その場をやり過ごしては、「お前もう少し考えた方が良いぞ」を毎度のごとく言われ続けているのである。

 

 

そもそも、空気を読む云々に関係なく、僕は将来の話をすることがかなり嫌いである。

その理由は主に4つあり、

1.僕が将来像として思い描いていることは(自分にとってはかなり地に足のついたことであると思っているが)他者からすると往々にして共感性があるものとはいえない内容である(ゆえに、話が合わない)

2.話したところで「音楽と医者どちらをやるのか」「音楽をするために医者をやるのか」「医者をやる必要はないのではないか」などのつまらないレッテル貼り・愚問が返ってくることが多い(ミュージシャンであり九大医学部の名誉教授でもある北山修氏のWikipediaを黙って三周してほしい)(そもそも、僕が音楽を作ることと、質問者が例えばテレビを見ることは同じである。「テレビの閲覧と医者どちらをやるのか」と聞き返してやろうか?)

3.将来どうなるかなど誰にとっても不確定なことである

4.そもそも、僕が将来何の目標もなかったとしても、僕にはそうである自由があり、親でもない他者がそれについてとやかく言うのはいけない、にもかかわらず口出しをしてくる輩が多すぎる

 


からである。

それゆえ、余程仲の良い友人以外とは、絶対にこの手の話はしないようにしている。

目の前のやるべきことを淡々とこなすことの方が、僕には向いている。

僕にとって大した仲ではない相手に将来の話をするというのは、スクランブル交差点で陰茎を露出させることに匹敵するほどの苦行なのだ。

 


そんな感じで、最近は漠然とした疎外感を感じているのである。

何言ってもどうせ興味持たれねーし、でも何も言わないとグチグチ言われたりするし。

大体、そんな人様の将来にウダウダ言うような独善的な行為が許容されるのなら、僕だって気に食わない奴を殴り飛ばして金を貰いたいし、オウムの事件すらも許されてしまうのである。言い過ぎか。

とはいえ、これだけ周りから疎外感を感じてしまうのは、逆にいうとほんの少しは上手くいってきたということなのかもしれず(?)、ここでより一皮剥けなければいけないのかもしれない、と肯定的に捉えておくこともできる。ポジティブである。

つまるところ自分は、目の前にやるべきことが割と具体的にあり、今はとりあえずそれをこなしていくだけなのである。

以上、持ち前の卑屈さと厭世観にしか個性を見出せない、悲しいオタク野郎の愚痴でございました。

バーーーカ!

 


mtkn

おばあちゃんのクオリア

こんばんは、夜更かしクンです。

更新だいぶさぼっちゃった。すみません。

先週、おばあちゃんが亡くなって、

悲しんだりバタバタしたりいろいろしてて、

「何してたか」って言われると

あんまり説明できない。

いきなり重そうな話ですみません。

 

 

というか、最近、この

「何してたか説明できない」

みたいなことばっかりだな。

 

 

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忘れたくないことを書き留めておくための

手帳みたいなノートみたいなものを持ってて、

葬儀関連のこと、おばあちゃんとのこと、

そこにどんどん書きつけていた。

もちろん事実をなるべく漏らさないように、

それでいて考えたこと、感じたことも、

合わせていろいろ書くんだけど、

これ、自分にしかわからないというか。

確かに言葉ではあるんだけど、

言葉以外のことは伝わらないというか。

 

 

「なぜその言葉を選んだのか」

「なぜそういう気持ちになったのか」

「なぜそれを書いたのか」

みたいなものには、それこそ、

僕と祖母、僕と家族、僕と故郷、

僕と今まで出会ったすべての存在、

をすべて理解してようやく近づくもので。

逆に、それを知らないひとに

わかってもらおうとするのは酷だし、

そもそもわかってもらわなくていいや、って。

そもそも、自分のためのノートだしね。

 

 

だから、

「何してたか」って聞かれても、

言葉にはできるけど、伝えることはできない。

 

 

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確かに、

論文や教科書を読んだり、

DAZNJリーグの試合を観たり、

皿洗いをためたり、夕方まで寝たり、

九州醬油(おいしい)で刺身を食べてみたり、

チャリが1週間で3回パンクしたり、

暑さでタアサイの苗が枯れたり、

熱中症気味でもエビスビールを飲んでみたり、

まあそれなりに生活は回っている。

 

 

でも、「何したの」って言われると

あんまり答える気にはならない。最近。

考えすぎかな。

「何してたの」ってたずねるとき、

何を話したかではなく、誰と話したか、

そもそも誰かと話したかどうか、

みたいなのを求めていて、

つまりそれは社交辞令みたいなもんだろうし。

でもやっぱり、

言葉にはできるけど、伝えることはできない。

 

 

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そんな中でもTwitterを開けば、

いろんな人がいろんなことに対して

ポジションをとり、意見を述べ、

喜んだり文句を言ったりしている。

いろんなメディアのコメント欄で

魑魅魍魎が跋扈している。

テレビはもう見なくなって6年目で、

いまどんな感じなのか最早わからない。

静かなレストランや飲み屋はほぼない。

みんな自分なりに言葉を操って何か言ってる。

まあ自分も前は普通にそういう感じだったし。

 

 

昔は何か内的な感動とか、

そういうののうち「他人に共有したいな」

と思えるものがそこそこあったし、

何ならつい最近までそうだった。

ブログにもいろいろ変な話を書いてたしね。

 

 

別に内的な感動がなくなったわけじゃなくて、

それを「他人に知ってもらおう」

と思うことがここ数週間でかなり減った。

考えてみればここ数年そんな感じだったけど、

ここにきてそれが浮き彫りになったというか。

 

 

小さい頃から本を読むのが好きだったし、

ひとと議論したりしゃべったり、

それをノートやブログに書いたり、

いろんな趣味アカウントでひとと絡んだり、

とにかく言葉を乗りこなして生きてきた。

でも、ここにきて言葉の限界とか副作用を

ひしひしと感じている。

極論、クオリアは自分にしかわからないし、

そもそも自分がわかっている保証もない。

他人にへんなかたちで伝わるくらいなら

伝えなくてもいいや、

自分の中にしまっておけばいいや、

みたいなド内向ニンゲンになりつつある。

 

 

それでもなお、

言わないよりは言った方がいい時も多いし、

現にいままではそうやっていろんな人と

関わりをつくって楽しくやってきた。

言葉を諦めて全部背負って森で暮らしたい、

みたいな思いと、

齟齬の発生を覚悟して人と生きたい、

みたいな思いがある。

現にこうして、この文章を書いているしね。

理想主義に走り過ぎてもアレだし、

要はバランスだね。

逆に今までは言葉に依存していたのかもね。

あくまでもツールのひとつだね。

 

 

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長くなってしまったけど、こんな感じ。

おばあちゃんのクオリア

確かに僕の中に存在するのでそれでOKだね。

原体験、実存を心の中に強く持って、

あるいは持とうと意識して、

そこを忘れなければそれでいいや、

という感じです。

 

 

プランターのゴーヤが黄色くなり始めたので

これから収穫して食べます。

ゴーヤチャンプルーかな。

それではまた。

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去年より小さい。連作障害かな

 

 

 

夜更かしクン

夢は夢のままで、の巻

どうも、熊猫です。

今週からオートマの普通免許を取るために自動車学校に通っています。たりぃ。

今日はそんな話です。

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皆さんには、「この夢めっちゃ見るなあ」みたいな夢、ありますか?

僕には、昔から見るジャンルの夢があります。

それは、「自分の過失で人殺しちゃって、警察から逃げまくる夢」です。

これを、何ヶ月に一回か見ます。

こういう夢あるあるとして言えるのは、(悪夢に共通して言えることですが)起きたときありえんホッとするも、直後に寝汗のヤバさに気持ち悪くなってシャワールーム直行する、です。

余談ですが、大学入ってから悪夢見る頻度上がってきたので、朝シャワー型人間になりました。

閑話休題

さて、過失で人殺す、といっても、どんな過失なのか。

一番メジャーなパターンはひき逃げです。

車に関する悪夢は昔からよく見ていて、未就学児童の頃に見た「親の車運転してたら後部座席から順に分解していって、ブレーキも効かず、壁に突っ込む」が記憶にある最初のものです。

嫌な夢だな〜〜〜。

で、ひき逃げに関する悪夢なのですが、これも昔から見ていて、「親の車運転してたらスピード出しすぎてパトカーとカーチェイスになり、その過程でおばあさんを轢き殺す」というマッドマックスみてえな夢を見たのが記憶にある限り最古のものです。

そこで冒頭の自動車学校の話に戻りましょう。

先日実車教習をしていて、ハンドル操作を軽くミスったりしたときにこういった悪夢がフラッシュバックしちゃって軽くパニクっちゃったんですね。

具体的にはコースアウトして隣の田んぼに突っ込みそうになりました

この感じで行くと、マジで路上教習うまくできる気がしません。

本当に助けてください。

悪夢のせいで悪夢が正夢になるという絶望的なセルフフィードバックの制御回路ができてしまいそうです。

アドバイスをお待ちしています。

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P.S.散々夢の中で無免事故を起こした親の車は、ハイエースです。

夏のイデア

こんばんは♪オシリチャンと申します♪

えー♪今日は♪ラブリーで幻想的な夏のイデアについて書いていこうと思います♪

 

普通に考えたら、皆さんも夏のイデアとかって見たいですよね??

以下です。

 

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ラブリーで幻想的な夏のイデア

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ラブリーな水のイデア

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幻想的な水のイデア

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ディズニーシーの新しい仲間、クッキーアン

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雄大な水のイデア



すごい綺麗ですよね!

まぁあんまり理想の夏を表象するとか、そういうのはインターネットの中でほどほどにやっておいて、我々は現実の中で堅実に生きていかないとね。

 

てか実際夏休み遊んでばっかりとか不可能になっちゃって、普通にご飯食べていくのってこんな難しいんだ!?みたいなことを思う。

 

マジでみんなこんな世の中でちゃんと仕事したり、キャンパスにも行けないのに家の中でちゃんと学業したりしてて、ほんと偉いなぁ。

 

ぜんぜん理想の夏とかより凄い。

 

理想の夏とかは全然カスだし、インターネットでやたら共有されてる鮮やかすぎる一面の青色とかデカすぎる入道雲とかそういうのを無理して演出したりする必要は全くない。

 

やることに追われながら美味しいもの食べて冷房が効いた部屋でダラダラする夏がサイコー。

 

お尻

ホコタテ

この間、夜更かしクンとビデオ通話をしていた時に、自己に内在する矛盾性についての話題になった。

どういうことかというと、自己は常に一貫しているものではなく、寧ろ相反する性質が共存することは往々にしてあり、それは自分たちもそうである、ということである。

当たり前である。

 


たとえば、僕は1年半前に曲を作り始めたばかりな上に、就職もしていない(医師国家試験をまだ受けていない)ので、「これからやりたいこと」がたくさんあったりする。

一方で、漠然とした厭世観ゆえに今すぐ消えてなくなりたい気持ちだったり、退廃的な生活を送る人への憧れであったりが、どこか頭の片隅に常在していたりする。

あるいは、自分に自信がなく、ちょっとしたことで元からない自信をさらに失墜させてはクヨクヨしてしまう。

にもかかわらず、自分の大したことのない成果を調子に乗って自慢げに話してしまったりもするし、もっと輝いていたいとも思う(これは多分に自信のゆえに、というだけではないし、やはり先と相反する感情みたいなものであると思われる)。

こういった、「Aであるが、Aでない性」みたいなものは(周りの人たちがどれほどそうなのかは分からないが)どうも自分の中には大なり小なり結構あるっぽく、その辺りが自分の諸々の思想の根底を為している一要素であると言えるように思う。

 


SNS社会となって以降、所謂ダブルスタンダードや矛盾性のようなものにかなり辛辣な世の中になりつつ(世の中になりつつ、というよりは、そういう矛盾性が可視化されやすいがゆえに人から「ん?」と思われやすく)ある気がする。

かくいう僕だって、他者のそういう矛盾性みたいなものに対し「なんだこの人!言ってることチグハグだな!」と安易に思ってしまうことはよくある。

しかし、どう考えたって、やっぱり人間には矛盾性みたいなものがあるでしょう、というのが、自分の思うところである(ひとえに矛盾性といっても、まあいろいろあるけれど)。

ま、要するに人間だもの、というワケだ。

そして、その矛盾性を超え、受容し、ある程度俯瞰できるようになったその先において、無の境地みたいなものに辿り着くような気がしている。

今の僕が思う、創作活動を続けてゆく先の理想像のようなものは、この仙人みたいなあり方であったりもする。

 

 

mtkn

夏に関するタナトフォビア

どーも、熊猫です。

今日もセミの死骸が落ちていました。

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夏が終わってしまう。

夏が始まってから、常に差していた夏の終りの影は、日に日に濃くなってゆくばかりだ。

今日もアスファルトの上に仰向けの蝉が倒れていた。

少し前に鳴き始めたばかりだと思っていたが、もう彼らは命を終えはじめている。

いやだよ〜、もっと夏やりたいよ〜!!!もう永遠に盆であれ〜〜〜〜!!!

ていうか、おかしくないですか?

もう8月、三分の一くらい終わっちゃいましたよ?

社会人になる前最後の自由に使える夏、一生に一度しかない23歳の夏ですよ?(まあ、この夏に限定せず全ての一瞬一瞬が人生に一度しか訪れないのだが)

は〜、涙が出てきて止まらない。

あれかな、再来週とか5時くらいからちょっと暗くなり始めるのかな。

夕立とかも減ってきて、乾いたアスファルトを雨が打ったときの匂い(ペトリコールといいます)とかもしなくなるのかな。

夏が死んでゆく、俺の夏が死んでゆく。時計の秒針が動く音も、いずれ来る夏の終りの足音にしか聞こえない。

ああ、このままタヒチとかに行こうかな。常夏らしいし。

あー、夏が終わったら俺はどうすればいいんだ。

9月になって、秋が始まったら、一体何をして過ごせばいいんだ。

サンマ食ったり、ちょっと涼しい午後の街を散歩したり、紅葉していく街路樹を見ながら侘び寂びを感じたり、毛虫を心配せず木陰のベンチで読書したり…

あれ、秋、良くね?

いやー、夏が終わったら、秋来んじゃん。

おいでおいで、おじちゃんと一緒に遊ぼう!プレステもあるよ!

去年の台風のときも「籠城!」とか言って友達の家に3人で引きこもって楽しくだべったりゲームしたり風の声に耳すませ(海の声)たりしたなあ。

いや〜、夏の死は秋の誕生だったんですね。

よく考えたらマジで俺秋めっちゃ好きだわ笑

ていうか俺、春以外マジでだいたい好きな気がしてきた!(春は大学に落ちたり、みんな進級する中、一人で寂しく追加ターンを行ったり、なかなか内定出なくて不安に過ごしていたためいい思い出がマジでない。この季節だけはマジでなくていい。)

こうして季節はめぐるのだ。

少し名残惜しいけれど、生きてさえいれば、一年経ったらまた会えるでしょ。夏なんて。

アタシ、古い思い出にひたるのは嫌いなの。前だけ向いて生きていたいの。

では、秋を心待ちにしながら夏を謳歌することにします。みなさんも、よき夏ライフを!

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P.S.今日出てた虹みて

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ゴツめの二本虹